個人情報の続き

2012年6月12日

5月30日に書いた個人情報の続きです

曽野綾子さんは・・・

「確かに、思いがけない不幸のどん底に叩き込まれて混乱している遺族にとっては、加害者の父親にどんな顔をして会ったらいいか分からないだろう。罵倒し、玄関から追い出しても後味は悪い。
 だが、加害者の父親の立場に立ってみれば、いったいどうすればいいのか。謝罪に赴いても『どのツラ下げて来たんだ!』と面罵され、土下座させられることも十分考えられる。いや、戸口を開けてもらえず、遺族の前で土下座することさえできないような状況も想像される。しかし、だからと言って謝りに行かなければ『線香の一本も上げに来ない』、『親も親だ、謝りにも来ない』と非難されるだろう、と思う。
 そうした双方の苦しみの中で、どんなにか辛いことだろうが、それでも少年の父親が『お詫びに行きたい』と思ったのは、人間としてもっともな感情である。警察や教頭がその気持ちを叶えようとしたことが、あれほどまでに責められることなのだろうか。たとえ短慮だったにせよ、彼らがひたすら謝罪しなければならないことなのかーーーーー。私の疑問はそういう点にある。」

そのほかにも、色々な観点から書かれていましたが

「個人情報に対して怯えに近い反応を示す今どきの人々が、その一方で、自分の情報を公開することは大好きなのだ。 ?中略? ブログやツイッターが流行っているのは、じつは自分のことを知らせたくてたまらない人が多いことの証に見える。
 亀岡の死傷事件に話を戻すと、私はこの際、改めて社会の議論に委ねたいことがある。
 交通事故という不幸な事件は、この先も必ず起きるはずだ。そして亀岡の事故のように、加害者が少年ならば、親もその責任を感じることになるのだろうが、いったいそういう加害者の立場の人は、謝罪に赴いたほうがいいのか、相手の気持ちを察して行かないほうがいいのか。私には、それが分からない。」 ?中略?  「日本では今後、個人情報を守るため、加害者が被害者に謝罪へ赴くことはいっさいしない社会制度が定着するだろう。そのうえで、被害者側は加害者への厳罰を望む。そこに救いの光がどう見えてくるのか、私は読者に聞きたい」

と結んでありました


何か考えさせられました